ヨシダミナコ 写真展|
Minako Yoshida solo exhibition
会場:ワコールスタディホール京都 ギャラリー
主催:ワコールスタディホール京都
企画協力:gallery Main
2018/7/17-9/29
これは父を撮影した作品です。
15年前、父が病と闘う中で、わたしは父の死と向き合うことが出来ず、父に寄り添った母の姿を撮っていました。けれど、母の写真が残ったことにより、父を撮れなかったということが、また父と向き合えなかったということが、大きな後悔として自分の中に残りました。
父と向き合えなかったのには理由があります。
家の中での父は、いつも怖い存在でした。常に何かにイライラとしていて、理不尽に怒鳴り散らし、母はそんな父親から子供達を遠ざけ、子供達もまた父親というものを避けてきました。
ただひとつだけ、わたしには父とのささやかな思い出があります。
幼い頃、わたしは父に連れられて日曜日のミサへよく出かけていました。キリスト教徒ではなかった父が、何故わたしだけを連れて礼拝に通っていたのか、その理由を聞いたことはありません。
父が亡くなってから、外国へ行く度に教会を訪れるようになったのも、そうした体験からなのだと思います。
2014年、アイスランドを旅した時に、圧倒的な自然の中にぽつねんと建つ教会の姿を見て、その風景がわたしの中の父親像と重なっていくのを感じました。
アイスランドの旅から戻って、研究者の方とコンタクトを取っていく中で、これまでの外国で見てきた多くの教会は人々が集まる街の中心地に建っているのに対し、どうしてアイスランドの教会はぽつねんとした風景の中に建っているのか、その理由がわかりました。それはアイスランドの定住方法自体が散居だったことが大きく関係しているということです。そして、ぽつねんと建っているように見えたアイスランドの教会も、実は人々のコミュニティーの要として存在しているということでした。
そのことから、わたしはアイスランドの教会が自分の父親像と何故結び付いていったのかがはっきりとしたように思えました。
わたしは父と向き合えなかったことから、ずっと父親というものから孤立していると思ってきましたが、アイスランドの教会を訪れたことにより、家族の要としての父が存在していたことを強く感じることが出来たからです。
そして、アイスランドの教会を撮影するために、再びこの国を訪れました。
幾つもの教会を撮影していく中で、わたしはやっと父と向き合う時間を得ることが出来たのだと思います。
*「Samskeyti」…アイスランド語で「合流点」、「接合点」、「つなぎ目」を意味する。