
Plot Art School
第1期 成果展アーカイブ
大越円香、トミコ、根来真輔、平岡真生、松本悠
展覧会ステートメント
本展は、合同会社gallery Mainが運営するスクール事業「Plot Art School」の第1期成果展です。
一体、Plot Art Schoolはどのようなスクールなのか、第1期について振り返りを兼ね紹介したいと思います。
Plot Art Schoolは現代美術のアーティスト育成を目的として、2021年4月に開校されました。第1期生には、美術大学の学生や社会人が集まり、カリキュラムの結びに設けられた成果展までの5ヶ月にわたって全13回、計100時間を超えるレクチャーが行われました。
カリキュラムは大きくふたつの内容に分かれます。主任講師の山崎裕貴(美術家)によるレクチャーと、ゲスト講師のItaq(ラッパー)/布施琳太郎(アーティスト)/やんツー(美術家)による特別レクチャーです。レクチャー内容は多岐にわたり、アヴァンギャルドの批判的な再考から、情報技術と人間の関係、そして神と芸術表現の問題にまで波及する形となりました。
さて、予定調和な挨拶と紹介はここまでとして、最後にPlotの理念について短く触れておきます。
いつの時も、アーティストはひとりの人間としての限界を抱えながら生きるしかありません。しかし、芸術表現は人々と共に生きるための政治を見つけ出すことができる逆説的な回路として機能します。人間と世界を結びつける唯一の回路。つまり、芸術だけが生みだす人間と世界があるということの驚き。
わたしたちが世界という「ただそんなふうに」を生きる喜びのために、芸術がひとりの人間を作りつづけるためのしなやかな想像の力を、Plot Art Schoolはこれからも育んでいきます。
主任講師|山崎 裕貴
A
わたしとあなたの秘めやかな耳鳴り𝄐
平岡真生
「別れてほしい...」
映画でよく見るシチュエーション。主人公になった気分で現実味がなかった。窓からは優しい光が差し込み、街が沈みだす。思考が停止し、まだ悲しいとも感じていないのに視界が不透明な光に満たされていった。
何気なく指をスライドさせ、自分とは関係のない他人の世界を見ていたせいか、他人事のようにも感じた。
なにかが壊れるときはいつも突然に訪れる。
わたしが行動しつづけると彼が自分自身を追い詰めていることに気づいていた。けれども、わたしの足は止められないし、止めたくなかった。目を瞑って見えないふりをしていた。
それは赤の他人への暴力と同様、いままで犠牲にしてきた自分自身の存在すらをも破壊に追いつめていくことでもある。これまで見えない暴力を与えつづけていたことに、いまさらながら気がついた。そしてまた一つの共同体が消える。
偽りのわたしを脱ぎ去り、すべてを曝け出すことで自分自身を犠牲にすること。それが関係を深めることだという固定概念に縛られていたのかもしれない。あるいは、自己満足だったのかもしれない。
あのころ、本当の彼を一度も見せてくれていないことにも気づいてはいなかった。
外側に纏っている偽りのわたしも内側の本当のわたしも、自分ということに変わりはない。
どちらの自分も愛すことができたなら...
ひとは破壊しあうことでしか生きてはいけない。チューブから一定の速度で流れているあの経血のように。ひとの心臓も毎日一定の速度で途絶えることなく動きつづけている。そんなことは、普段過ごしているなかで実感することなどないだろう。あたりまえのことは、いたって変わりばえのしない日常だと思っていたものが破壊される時にだけ作動する。そのあたりまえというものは、保証されているものではない。いともかんたんに壊れてしまう儚いものだということを人はまたすぐに忘れてしまう。
いつかは壊れてしまうことを分かっているはずなのに、本当に破壊された時にだけ騒ぎ立てる。そして破壊と再構築を繰り返すのだ。人間のこのどうすることもできないシステム。
わたし自身もあなた自身も破壊しながらではないと生きてはいけないということをまた忘れて、生き続けてしまわない為にも。
Media
抽出蒸留装置(水蒸留器精製機)/経血/水/チューブ/ステンレストレイ/レースカーテン/カーテンレール/ニチニチソウ(日々草)/プランターの土/卓上拡大鏡/拡大鏡/iPhone/スモークマシン
Profile
1999年生まれ。
2022年 京都精華大学 デザイン学部 建築学科 卒業
兵庫県出身で現在は京都を拠点とする。
主な展覧会に
“SHAPE OF US”(FabCafe Kyoto/京都/2022)
個展 ”海から生まれる新たな肖像”(京都精華大学Cartoon Gallery/京都/2021)
”抵抗とレゾナンス”〔Resonance and Resistance〕(BnA Alter Museum/京都/2021)など。

B
ごっこ遊び
トミコ
幼いころの記憶のひとつに、お墓の中のかざぐるまがあります。
わたしの祖父が眠っているお墓には胎児や死産児、幼くして亡くなった子供のためのお地蔵様がいました。そして、その傍らにはあの世で子どもたちが寂しい思いをしないようにという親たちの願いから、かざぐるまやおもちゃなどが供えられていたからです。
かざぐるまは、そこにあるのにあの世のあの子には実体がありません。目に見えるものとしては、お墓にかざぐるまという不気味な印象だけが残ります。子どもが遊んでいるというよりは、かざぐるまがお墓という風景で遊んでいるような気さえしてきます。
わたしは、その不思議な感覚を頼りにわたし自身の目を撮影し、印刷した紙を用いてかざぐるまをつくりました。そして、お墓のかざぐるまに倣い、かざぐるまの見ている世界を見ているようなイメージで日常の風景で遊んでみることにしました。
Media
映像、かざぐるま(紙にインクジェットプリント)
Profile
岐阜県出身。2017年より京都写真教室 Tract に通う。

C
いつか虹になったかもしれない飛沫
松本悠
本作品は、2021年2月中旬より急性膵炎によって生死を彷徨った父とその妻である母のあいだで交わされたメッセージアプリ上での会話を中心に制作された。厳重な感染症対策が規範化されているなか、院内での対面は全面的に禁止されていた。
わたしは数歩先にあるふたりの姿をたとえば想像することも、たとえば共感することも、たとえば抱きしめることさえも、なにもかもできなかった。ただ、愛を誓うふたりの人間の存在について再考させられるだけの日々がつづいた。
そして、たどり着いたのは言葉と飛沫の切り離せない関係だった。
だれかと繋がろうとして言葉を使うとき、このわたしの意思とは裏腹に、目のまえの相手に飛沫が無慈悲にも降りそそいでしまう。言葉を使いつづけるかぎり、この噴射は双方で行われ、わたしたちはつねに体液を交換しあって生活をしているともいえる。
(もちろんこの日常は、一年半前から失われてしまったといっても過言ではない)。
また、口内にある内は自分と一体化している唾液も、身体の外に出てしまえば不快の対象となる。それは、たったいま自分のなかに存在していたものが、他者へと変容してしまう瞬間。徹底的な除菌を通したとしても、いちど吐き出した唾液(かつて自分だったもの)を反芻することは拒まれるということ。
これらの意味で、わたしたちは自分のなかに制御しえない他者性をつねに持ちつづけているのではないだろうか。その過剰な交換のなかにこそ「わたしとあなた」を強く結びつけるための何かがあるのではないか。このような疑問からすべてが始まりまった。
「愛するあなた」に向けた飛沫の散布は、互いが互いに行う、マーキング。一刻の猶予もないようにみえるこの世界で、存在しえないはずの「ふたりだけの絶対」をつくろうとするような行為。
ガラスのディスプレイに遮られることで失われてしまった、ふたりの「言葉と共にあったはずの飛沫」を想像する。タッチパネルに打ち込まれる言葉にならない言葉たちが、緑色の吹き出しのなかで送信された後も、「なにかいいたげ」な存在感を帯びている。きっとインターフェイスとしての液晶には、文章という形以前の、だれにも共有できない感情が、痕跡を残しているのだろう。頬をゆったりと伝う涙や、独りごとで飛び散る飛沫の白い跡として。
電源を落とす。ぼくたちの顔を照らしていた、光にも満たないような小さな光が消えた沈黙の中で、この「カラダであるぼく」を思い出し、あの「カラダであるあなた」のことを思い返す。その想起のある点においてこそ、ぼくは、一人でいながら、みんなでいることができる。忘れることのない「今までとこれから」と共に。
Media
OHPフィルムに染料インクジェット、水槽の破片にレーザーカッター、水槽、濾過装置、繁殖用/治療用隔離ケース、キャンドル、チューブ、MP4映像、両親のiPhone6、水、骨
Profile
大阪府泉佐野市出身
2020年 同志社大学 卒業 情報科学芸術大学院大学(IAMAS)在学

D
Inter / face
根来真輔
スマートフォンの普及で、常時インターネットに繋がっていることが日常となった現代において、コロナ禍は私たちの環境をますますデジタル化へと推し進めています。インターネットを介したオンライン上の活動は、リアル(実体)を伴わない現実として、より一層、日常生活に浸透しつつあるのではないでしょうか。そんな実体が担保されない環境は、現代において現実とは何なのかという問いを突きつけます。
この作品は、友人が「上の空」になった瞬間を、二人だけの空間で撮影しようと試みたものです。そこに居るにも関わらず意識がいまここにない友人は、私には、抜け殻のようなオブジェに見え、同じ空間に存在しているのかしていないのか曖昧な感覚になります。また同時に、友人の表情がインターフェースとなり、そこに奥深い不可知的な風景を感じてしまいます。
撮影時に焚かれる閃光は、友人の意識を瞬時にいまここ(今ある私の世界)へと戻します。カメラが捉えた像は、意識がここにあるのか無いのか、それとも、意識はここに回帰しているのに反応が追いつかず身体だけが「上の空」な状態にあるのか、不確かな像が立ち現れます。それは、身体(実体)を伴った友人なのでしょうか。あるいはその反対に、身体(実体)を伴わない友人の意識がそこにあるのでしょうか。この不明瞭な状態は、現在のオンライン的なリアルと、相対する現実(オフライン)が併存しているかのように見え、何がリアルでそうでないのかという境界線が滲みつつある現代を表象しているように思えるのです。
Media
インクジェットプリント、映像
Profile
1973年 大阪生まれ 写真表現大学、TRACTにて写真表現を学ぶ 認識や実存をテーマとした作品制作に取り組んでいる。
●個展
2015年「REALITY」ブルームギャラリー/大阪

E
惨劇のアーキテクチャ
大越円香
「娯楽としての処刑」
中世ヨーロッパにおける処刑は、大衆に晒されていた。それは大衆にとって娯楽の一つであり、祭りのように見世物とされた。
しかし国民道徳のために、イギリスにおいては1868年、フランスにおいては1939年に公開処刑は廃止された。日本においても1870年に死刑執行方法が絞首刑・斬首刑・梟示の3種類に限定され、死刑執行の公開は廃止された。
スマートフォンとSNSの普及は情報流通の構造を変え、私たちの生活に欠かせないものとなり、人々の消費行動や世論形成・公共性を変えた。しかし、人々によって行われる情報の共有は、その影響力から時に惨劇を見せる。
炎上と呼ばれる状態は、人格否定や誹謗中傷を正義とする。炎上対象者は心理的負担と社会的な影響を受け、過剰なまでに許されない雰囲気に襲われる。SNSの匿名性はネット世論を加熱し、攻撃性と不寛容な世界を作り出す。
ドイツ刑法学者フォイエルバッハは、1801年に罪刑法定主義の概念を提唱した。何が犯罪とされ、いかなる刑罰が科せられるか、あらかじめ法律が定めてなければならない。それは過剰な制裁から罪人を守るために法律が必要だからである。
SNSが世界の中の一つの「世界以上に広大な世界」となった今日において、炎上という現象は群衆を操作する。
群衆が食い尽くそうとしているのは情報か、正義か、人か。食い尽くした養分を摂取し、これからも世界は構築されていくだろう。
Media
矩形の砂糖に転写、映像、iPhone、監視カメラ
Profile
2020年 秋田公立美術大学 卒業
情報科学芸術大学院大学(IAMAS)在学
主な展示に
アートアワードトーキョー丸の内2020、SHIBUYA STYLE vol.14(西武渋谷)、個展 Unaccounted for “ “ (GalleryTURNAROUND/仙台)、IAG AWARDS EXHIBITION 2019(東京芸術劇場ギャラリー1)
9/7~12にKUNST ARZT(京都)で個展開催
